KOGA HISTORY VOL.01

古賀の歴史を歩く
── 古代から中世へ

玄界灘を望み、大宰府へ続く道が交わるこの土地は、いつの時代も新しい文化が最初に流れ込む「出会いの場所」でした。数千年前の暮らしの跡から、黄金の馬具、戦国武将の祈りまで——足元に眠る物語を、地層を掘るようにたどります。

大陸の風が、
吹き抜けた街。
地層を掘りはじめる

縄文 ― 海と山の恵みのあいだで

いま、約4,000年前の層

約4,000年前の縄文時代後期。川原西地区には、直径約4メートルの円い竪穴住居が並んでいました。家の中央には炉が切られ、柱の穴のひとつには苦木ニガキの木材が残っていました。

石の矢じり(石鏃せきぞく)で狩りをし、石のおもり(石錘せきすい)で魚を獲り、石皿とすり石で木の実を挽く——海と山、両方の恵みに手が届くこの土地で、暮らしはすでに多角経営でした。

川原西地区遺跡群竪穴住居 直径約4m石鏃・石錘・石皿

弥生 ― 甕棺文化の、東の際

いま、約2,000年前の層

弥生時代の古賀は、新しい文化がまじり合う境界線でした。馬渡・束ヶ浦遺跡では、朝鮮半島・金海地域に由来するとされる「金海式」の大きな甕を棺にした墓が見つかり、中からは青銅の剣・・矛、そして勾玉や管玉が現れました。

甕棺墓が濃く分布する北部九州のなかで、古賀はその「東端」付近にあたります。境界の土地・古賀の性格は、二千年前にはもう始まっていたのです。

金海式甕棺青銅武器 剣・戈・矛県指定文化財(2008年)

古墳 ― 船原古墳、眠れる黄金の馬具

いま、約1,400年前の層 ── ここから先、しばらく暗くなります

石室の外に掘られた穴の中で、
黄金の馬具は千四百年、誰にも見つからずにいた。

6世紀末から7世紀初頭、谷山の地に築かれた前方後円墳「船原古墳」。2013年3月、その傍らで国内に例のないものが見つかります。石室のに掘られた土坑——「遺物埋納坑」。中には500点を超える品々が、埋められた日のまま眠っていました。

その多くは、朝鮮半島・新羅系とみられる馬具や武具。外交と軍事、ふたつの力を握った地域の首長がこの地にいたと考えられています。2016年10月、船原古墳は古賀市で初めての国指定史跡になりました。

復元全長 45m以上(現存長 37.4m)後円部前方部
前方後円墳——鍵穴のかたちの墳丘に、横穴式石室を備えます。造られたのは6世紀末〜7世紀初頭。宝は墳丘の中ではなく、すぐ外の埋納坑から現れました。
  • 500点超埋納坑からの出土品
  • 国内初遺物埋納坑という埋め方
  • 国内3例目馬冑の出土
  • 2016年国史跡指定・市内で初

※数値・評価はいずれも古賀市公式・文化庁の公表資料に基づきます。

国内初確認

玉虫装飾杏葉たまむしそうしょくぎょうよう

タマムシの羽で馬具を飾る——法隆寺の国宝「玉虫厨子」と同じ技法が、馬の装身具に。約20枚の羽が使われ、国内で初めて確認されました(2020年)。

類例なし

金銅製歩揺付飾金具こんどうせいほようつきかざりかなぐ

六角形の透かし板に、歩くたび揺れる「歩揺」を吊るした、シャンデリアのような構造。国内に類例のない華麗な馬具です。

国内3例目

馬冑ばちゅう

馬の頭を守る鉄の兜。全長48.5cm、6枚の鉄板を鋲で継いで作られています。出土は和歌山・埼玉に次ぐ国内3例目という希少さです。

国内初

ガラス装飾付雲珠がらすそうしょくつきうず・辻金具

鉛ガラスの粒で彩られた馬具。ガラス装飾の馬具の発見は国内初で、新羅の王墓の類例と比べられています。

飛鳥 ― 「磐井の乱」と、糟屋屯倉

いま、約1,500年前の層
527–528九州を揺るがした内乱の、そのあとに

九州の豪族・筑紫君磐井が大和王権と衝突した「磐井の乱」。敗れた磐井の子・葛子くずこは、命と引き換えに土地を献上します。それが糟屋屯倉かすやのみやけ——王権の直轄地でした。

その役所の有力な候補地が、古賀市鹿部の鹿部田渕遺跡です。L字型に整然と並ぶ建物群と倉庫の跡。中央の権力がこの土地を直接つかもうとした痕跡が、いまは「みあけ史跡公園」として静かに残されています。

鹿部田渕遺跡L字型の建物配置みあけ史跡公園として整備

奈良・平安 ― 官道を、旅人がゆく

いま、約1,200年前の層

都と大宰府を結ぶ幹線官道「西海道」が、古賀を通っていました。この地には席打駅むしろうちのえきという駅家が置かれていたと推定されます——今の筵内。地名は千年を越えて残りました。

伝承高僧・行基がこの地に医王寺や清瀧寺を開いたという言い伝えも残ります。伝承は伝承として——それでも、人と道がここを通り続けたことは確かです。

官道・西海道延喜式の駅・席打行基開基の伝承

中世 ― 祈りと、武将たちの足あと

いま、約500年前の層 ── 地表はもう、すぐそこ
1493五所八幡宮に残る、明応2年の棟札

戦国の世、古賀は名将・立花道雪と養子・宗茂の勢力圏にありました。ふたりが深く帰依したと伝わるのが医王寺。戦のさなかにも、祈りの場は守られていました。

そして五所八幡宮には、明応2年(1493年)と記された棟札が今も残ります。建物を建て替え、修理し、受け継いできた記録——戦乱の時代を通じて、この土地を支え続けた人々の信仰と力の証です。

立花道雪・宗茂医王寺五所八幡宮・明応2年の棟札

出会いの場所、境界の土地。
その性格は、二千年変わっていない。

大陸文化の玄関口、都へ続く道の要衝、そして勢力がせめぎ合う境目。古賀の歴史の三つの顔は、いまも私たちの足元に息づいています。続きは、実物の前でどうぞ。

次章「近世・江戸 — 街道が、まちをつくった。」を読む ›

SOURCES

本文の事実関係は、古賀市公式サイト(船原古墳基本情報・出土品解説・古賀の歴史)、文化庁 国指定文化財等データベース、福岡県文化財データベースの公表内容に基づき、リサーチ部のファクトチェック(2026年6月)を経ています。行基の開基は伝承として区別して記載しています。