玉虫装飾杏葉
タマムシの羽で馬具を飾る——法隆寺の国宝「玉虫厨子」と同じ技法が、馬の装身具に。約20枚の羽が使われ、国内で初めて確認されました(2020年)。
玄界灘を望み、大宰府へ続く道が交わるこの土地は、いつの時代も新しい文化が最初に流れ込む「出会いの場所」でした。数千年前の暮らしの跡から、黄金の馬具、戦国武将の祈りまで——足元に眠る物語を、地層を掘るようにたどります。
約4,000年前の縄文時代後期。川原西地区には、直径約4メートルの円い竪穴住居が並んでいました。家の中央には炉が切られ、柱の穴のひとつには苦木の木材が残っていました。
石の矢じり(石鏃)で狩りをし、石のおもり(石錘)で魚を獲り、石皿とすり石で木の実を挽く——海と山、両方の恵みに手が届くこの土地で、暮らしはすでに多角経営でした。
弥生時代の古賀は、新しい文化がまじり合う境界線でした。馬渡・束ヶ浦遺跡では、朝鮮半島・金海地域に由来するとされる「金海式」の大きな甕を棺にした墓が見つかり、中からは青銅の剣・戈・矛、そして勾玉や管玉が現れました。
甕棺墓が濃く分布する北部九州のなかで、古賀はその「東端」付近にあたります。境界の土地・古賀の性格は、二千年前にはもう始まっていたのです。
九州の豪族・筑紫君磐井が大和王権と衝突した「磐井の乱」。敗れた磐井の子・葛子は、命と引き換えに土地を献上します。それが糟屋屯倉——王権の直轄地でした。
その役所の有力な候補地が、古賀市鹿部の鹿部田渕遺跡です。L字型に整然と並ぶ建物群と倉庫の跡。中央の権力がこの土地を直接つかもうとした痕跡が、いまは「みあけ史跡公園」として静かに残されています。
都と大宰府を結ぶ幹線官道「西海道」が、古賀を通っていました。この地には席打駅という駅家が置かれていたと推定されます——今の筵内。地名は千年を越えて残りました。
伝承高僧・行基がこの地に医王寺や清瀧寺を開いたという言い伝えも残ります。伝承は伝承として——それでも、人と道がここを通り続けたことは確かです。
戦国の世、古賀は名将・立花道雪と養子・宗茂の勢力圏にありました。ふたりが深く帰依したと伝わるのが医王寺。戦のさなかにも、祈りの場は守られていました。
そして五所八幡宮には、明応2年(1493年)と記された棟札が今も残ります。建物を建て替え、修理し、受け継いできた記録——戦乱の時代を通じて、この土地を支え続けた人々の信仰と力の証です。
本文の事実関係は、古賀市公式サイト(船原古墳基本情報・出土品解説・古賀の歴史)、文化庁 国指定文化財等データベース、福岡県文化財データベースの公表内容に基づき、リサーチ部のファクトチェック(2026年6月)を経ています。行基の開基は伝承として区別して記載しています。