KOGA HISTORY VOL.02
古賀の歴史を歩く
第二章 近世・江戸
東は犬鳴山系、西は玄界灘。その間にひらけた細い回廊を、古くからすべての人と物が通り抜けてきました。江戸時代、ここを貫いたのが「唐津街道」。古賀には宿場「青柳宿(あおやぎしゅく)」が置かれ、大名行列や旅人でにぎわいました。街道とともに歩んだ、古賀の近世をたどります。
街道が、
まちをつくった。
唐津街道 ― 玄界灘沿いを、東西に結ぶ道
いま、約四〇〇年前——街道の層
唐津街道は、小倉(北九州市)を起点に唐津(佐賀県)へ向かう、長崎街道の脇街道です。玄界灘の沿岸を東西に結び、古代からの要路を江戸時代に整備しました。小倉から数えて六番目の宿場が、古賀の「青柳宿」——宗像の赤間宿方面から博多・福岡方面へ向かう、ちょうど中間に位置します。
唐津街道と青柳宿の位置(模式図・点線部は途中の宿場を省略)
青柳宿 ― 鉤の手の町並みと、三度の大火
いま、約四二〇年前——町割りの層
青柳宿の町割りは慶長10年(1605年)頃に始まり、約50年をかけて完成しました。良縁寺など周辺の住民を移り住まわせて宿場町をつくり、町並みは防御のために直角に折れ曲がる「鉤の手(かぎのて)」。歴史上、三度の大火に見舞われ、当時の建物の多くは失われましたが、街道の宿場としての姿は、いまに伝えられています。
見通しを断ち、敵の侵入を防ぐための屈曲した町割り(模式図)
- 慶長10年頃町割りの始まり
(1605年) - 約50年かけて完成した宿場町
- 三度町を襲った大火
大名たちの往来 ― 三枚の宿札
いま、参勤交代の時代——往来の層
青柳宿の下之町茶屋(城戸氏)には、3枚の「宿札(しゅくふだ)」が保存されています。大名の行列が、確かにこの宿を使った——それを物語る貴重な資料です。
下之町茶屋(城戸氏)に伝わる3枚の宿札(意匠はイメージ)
西構口跡 ― 福岡藩領に、三か所だけの遺構
いま、約四〇〇年前——宿場の護りの層
構口は、宿場町の出入り口に設けられた門・土塁・石垣などの防御施設です。青柳宿の西構口跡は、2003年(平成15年)に古賀市の指定文化財となりました。福岡藩の領内で構口が残る主な宿場は、山家宿・木屋瀬宿・青柳宿の3か所だけ。しかも山家宿・木屋瀬宿は長崎街道の宿場ですから、唐津街道の宿場では青柳宿が唯一です。近世の宿場町の構造をいまに伝える、極めて貴重な遺構です。
- 2003年古賀市指定文化財に
- 3か所福岡藩領に残る構口
- 唯一唐津街道の宿場では
なぜ、古賀に街道が通ったのか
いま、地形そのもの——回廊の層
古賀がいつの時代も交通の要衝であり続けるのは、地形の必然です。東には犬鳴山系(標高500m級)が壁のように連なり、西は玄界灘。あいだに残されたのは、幅わずか3〜5kmの回廊地帯だけ。福岡と北九州・宗像を陸路で結ぶには、ここを通るしかありません。大根川(下流は花鶴川)の扇状地が平坦な地盤をつくり、道を通すのにも適していました。古代の官道・西海道も、江戸の唐津街道も——時代が変わっても、道は同じ回廊を選び続けたのです。
山と海にはさまれた回廊を、古代の官道も江戸の街道も通った(模式図)
歴史を、肌で感じる場所へ
青柳の町並みには、街道の記憶がいまも残っています。すべて実際に訪ねられます。
人が通る場所に、宿場ができ、
市場が立ち、まちが育つ。
江戸時代の古賀は、唐津街道と青柳宿によって、その姿をはっきりと現しました。地形が選ばせた道の上で、古賀はいまも「人が集まる土地」であり続けています。
SOURCES
本文の事実関係は、リサーチ部の街道・交通研究データおよびファクトチェック(2026年6月)を経た歴史ブリーフの原稿に基づき、その範囲内で構成しています。青柳宿の町割りは慶長10年(1605年)頃から約50年をかけて完成。西構口跡は2003年(平成15年)に古賀市指定文化財。図版はいずれも模式図であり、実際の位置・形状を正確に示すものではありません。